具体化の賜物

抽象的思考ばかり。

予想が当たっていたという話

 

4年間お付き合いした彼女と別れた話

 周りの人は私の精神的苦痛を理解できないかもしれない。私は去年の末に彼女と別れた。4年間お付き合いさせていただいたのだけれど、私なりに苦渋の選択をした。それが別れるという選択であった。

 苦渋の決断であったことを詳しく説明したところで理解されることはなかなかない。実際に、理解された経験がない。人間の感情は多種多様である。ひとりひとりに独自の感情がある。しかし社会には常識というものが存在し、そこから外れた感情を理解してもらえる関係性は稀有である。私はそのような関係性を持ち合わせていない。それはもちろん、読者に対してもそのような関係性ではないと思っている。だからこそ、別れた理由についてはここでは省略する。

 そもそも、上記の話は前提でしかない。本題は、別れる直前にブログへ記述した予想が当たっており、それにより問題が生じているという話である。私は別れる前に、別れた後の自分がどうなるかという予想を行った。その予想はとても高精度で当たっていたのである。過去の自分を尊敬する。

 過去の自分を尊敬しながらも、予想に留まっていたことに私は苦痛を感じている。なぜなら、問題が発生しているからである。以下では、予想、問題、解決策についてまとめる。4年間お付き合いした恋人と別れる人の参考になると大変うれしい。

 

予想とは

 私が行った予想は以下の内容である。

私自身の価値は彼女で決まっている。私で決めることができないのである。仮に私が彼女と別れたら、私は無価値になる。別れて数ヶ月は「彼女と別れた悲しい奴」になるかもしれないが、それも一時的なものである。

アイドルになりたい。 - 具体化の賜物

 リンクから飛んで全文を読んでもらえると、当時の生々しい感情がすべて記載されているため、理解しやすいかもしれない。かもしれないだけです。期待はしていない。

 当時の私は恋人との関係性を人生の核にしていた。生活するうえでまず考えることは恋人の同意である。友人と遊ぶにしても、夜ご飯を決めるときでも、どこに行くにしても、必ず恋人へ報告し同意を得ていた。別に束縛されていたわけではない。ただ私が、恋人を世界の中心にしていただけだった。

 恋人を世界の中心にして、恋人に時間を費やした。趣味をやるより恋人といた方が楽しい。自分の世界観を極力理解してくれようとする、素晴らしい彼女であったから。何を話しても返事をしてくれる。どんな思想を話しても否定はしない。恋人との会話がこの世の何よりも心地よかった。その結果、私の趣味は恋人と話すことになった。

 過去にやっていたどんな趣味を思い返しても、恋人と話すことに勝るものはない。私はそう考えている。例えば音ゲーを考えてみよう。音楽に合わせて身体を動かす。それだけを聞くととても楽しそうに思える。しかし私にとってみれば、それは恋人と好き勝手話すことより劣るのである。充実感を感じない。ゆえに私は、恋人と話す以外の趣味をやらなくなった。結果として多くの趣味を喪失してしまった。こればかりは私が悪い。

 恋人と話すという趣味は恋人がいないと成立し得ない。恋人が存在しない今となっては、毎日なにをして過ごせばいいのか、見通しが立たない。なにをやっても楽しくないから、なにもやることがない。家事、勉強、サークル以外にやることがない。でもそれらは、私にとってみれば恋人と話す趣味に劣るのだ。

 毎日なにもしていないから、人と話すにしても私から話すことが何もない。本当に何もない。何もないから、私は他人に価値を提供できない。他人を楽しませることができないのだ。私は恋人と別れた結果、価値を提供できない無価値な人間になったのである。これが上記の予想である。

 実際に予想は当たっており、現在では趣味を見つけられていない。価値を提供できていない。私の中に確固たる自信が存在しない。

 当たってしまった。最悪だ。別れる前の私には、意外とどうにかなるんじゃないかという謎の自信があった。しかしそれは無に帰すことになったのである。

 

問題発生

 自分に価値を感じられないという状態を経験したことがあるだろうか。大変苦しい状態である。生きる理由がないのと同じだから。経験すればわかるんだろうけれど、経験したことのない人が多いのだろうか、なかなか理解されない。

 ここで生じた問題は、生きる理由がない問題である。価値を感じられないから、この苦痛な社会にわざわざ存在し続ける理由がないのである。

 生きる理由を自分なりに定めようと努力はした。例えば、恋人と話すという趣味をなんとかして実行することである。また恋人を作り、その恋人と話せば必然的にそれが趣味となり、アイデンティティとなり、生きる理由となるのである。しかし、恋人なんて簡単に作れるものではない。(これは将来を考えてしっかりとした関係性を築くことのできる恋人という意味である。)ゆえに、生きる理由を別のもので定める必要が出てきた。

 生きる理由を別の方法で定めるために、友達を信用してみようと考えた。例えば、何かつらいことがあったときに友達にアウトプットしようとした。しかし、友達は所詮友達であった。距離のある返事しかしてくれないのである。こればかりは友達が悪いわけではない。だが、信頼するという行為に対する充実度はとても低い。それゆえに心が折れた

 また、友達はわざわざ言語化して「お前が大事」とは言わない。友達にとってみれば当然なのかもしれないけれど、人間不信である私にとってみれば寂しいことである。孤独を痛感するのである。孤独を感じることで「友達は所詮友達。」という思想が加速するのである。深い人間関係が存在しないことも、価値を感じられない理由のひとつであろう。

 生きる理由をまた探すために、なにか趣味を作ろうと考えた。しかしなにをやっても充実感を感じられない。ゆえに心が折れた。もうしんどい、となってしまった。

 以上より、今の私は生きる理由を定められない状態である。どうしよう。

 

解決策

 今のところはサークル活動に尽力しようと考えている。サークルで脚本を書いたり演出をやったり、サークルの人間と遊びに行ったり。しかしこれも力尽きる可能性がある。現時点で充実感を感じられていないからだ。

 サークル活動すら力尽きてしまった後は何もかも捨てて消えてしまうかもしれない。私はそれを危惧している。なにか解決策がある人間は教えてください。解決策を試す元気がある限りはそれを試そうと思います。

 

まとめ

 「人生しんどい、助けてくれ~~~~~!」をブログという形でしか表現できません。直接言えるくらい人を信用できてません。友達のみんなには本当に申し訳ないと思っている。でもこれが僕のアウトプットの方法になっているので、許してほしいです。

 僕の人生が気になる人間は、ぜひ今後の記事も読んでください。

 

おわり

自殺してみた

自殺未遂をしました。

私は人生に諦めがつきました。なので、死んでみようと思って自殺を試みました。その結果、未遂で終わってしまいました。

自殺系の記事はある程度の需要があります。なぜなら、私はこれまでずっと血眼になって死ぬ方法を探してきたし、それらの記事にはきちんとそれなりにビューがあったからです。なので僕も、自殺未遂後の気持ちを備忘録として残しておきます。きっとレアでしょう、こんな体験は。

事前に申し上げておきますが、これは自殺を推奨する記事ではありません。また、生々しい表現が多々出てきますのでそのあたりを許容できる方はどうぞお進みください。(そもそも許容できない奴はこんな記事読んでいないと信じているよ)

 

 

なぜ死ぬのか

そもそも私はなぜ死を選んだのだろうか。その理由のひとつは、この世には生きる理由がないからである。こう言うと「生きてたら幸せになれるよ!」とか「好きな人と結婚したくないの?」とか「生きてるだけで幸せでしょ」とか、いろんな返事を想像してしまう。

そもそも、人は幸せを求めて生きる生き物なのか?それなら、僕は死こそ幸せだと思っているので死なせてほしい。好きな人と結婚するのだって幸せとは限らない。相手に合わせて無理して結婚した場合は?結婚したら相手の性格が豹変した場合は?など、世間一般の幸せ像が本当に幸せなのかは疑問である。

人は幸せを求めて生きるのではない。生きなきゃいけない社会の中で生かされているのが人間なのだ。なぜ生きなきゃいけないのか?それは宗教的な話が多々絡むであろうから僕には到底語り尽くせないと思っている。しかし、生きなきゃいけないという暗黙の道徳があって、そのもとで人類が繁栄してきたことは確かである。

もう少し噛み砕いてみる。人は子どもを産み育てるために生きるわけではないし、人は働くために生きるわけではない。極論、人がいないと人類が滅亡するから、社会の暗黙の了解として「死んではいけない」というルールを作ったのである。人が多く死ねば、社会が成立しなくなってしまう。働き手はいなくなるし、子どもも減ってしまう。国は社会を成立させないと国を維持できない。だから人を死なせないようにしたいのである。国(社会)が、この社会では死んではいけないというルールを暗黙のうちに作っているのである。つまり、人間は生きているのではなく、生きなきゃいけないと思わされている、生かされている存在なのである。生きなきゃいけない社会の中で生かされているのが人間であるというのはこういうことである。

そう考えると、生きなきゃいけないという考えの裏には社会の都合しかないのである。個人の権利が重視される現代では、生きなきゃいけないという社会の都合に振り回される必要なんてないはずだ。本来は生きる理由なんてないのである。わざわざ毎日つらい思いをして働く必要なんてないし、苦痛を感じた瞬間に死ぬことだって本来は自由なはずだ。

これが、死を選んだ理由のうちのひとつである。

 

他にも理由は多々あるが、それは身の上話になってしまうので割愛する。私生活でめっちゃ我慢してましたっていう話です。

我慢が重なると、自由にしたくなる。現代は個人主義の時代である。個人の権利は尊重されるべきである。現代では自由に意見を言っていいはずだし、それを規制されることはおかしい。同様に、私生活では法を犯さない限り自由にしていいはずである。もちろん、人が不快にならないような振る舞いは社会で生きる上で、マナーとして必須であるだろう。

しかしそこに含まれない行動、つまり法を犯すわけでもないしマナーに違反するわけでもない行動はどうだろう。

例えば、パートナーとお互い同意の上で浮気をする行為はどうだろう。一般に浮気はいけないと言われるが、今回はパートナーの同意を得ているのである。つまりマナーの面では問題ないだろう。また、浮気は法を犯しているわけでもない。「じゃあ浮気はしていいのだろうか?」

例えば、自殺はどうだろうか。一般に自殺はいけないと言われるが、自殺は法を犯していない。また、人目につかないところでひとり寂しく死ぬのであれば、誰も気づかず、そのまま白骨化し、誰の迷惑にもならない。つまりマナーの面でも問題ないだろう。「じゃあ自殺はしてもいいのだろうか?」

 

人には生きる理由なんてないし、自殺は個人の権利である。私が言いたいことはそういうことだ。生きる理由もなく苦痛な社会を生きる必要性は?そう考えていると、自殺を肯定しない、個人の権利を制限するような社会が嫌いになっていく。

「どうして社会の言うままに生きなきゃいけないのだろう」

「社会は僕の人生のケツを拭いてくれるのだろうか」

「生きろって言う奴は僕の面倒を見てくれるのだろうか」

「社会ってなんでこうも個人を軽視するのだろうか」

「仕方ないって言葉好きだよな、社会」

 

ということで

自殺してみました。睡眠薬を爆飲み、お酒を爆飲みしてフラフラと。ゴミ袋被って首元ギュ。気づけば寝ていました。ふと目が覚めると息が苦しい。「死ねなかったかあ。」と虚無になった。スマホを見て返事して、ぼーっとしていると後輩から電話がきていた。心配して電話くれたみたい。

実はインスタのストーリーで自殺を実況中継してました。その記憶はないんだけどね。おそらく睡眠薬とお酒で記憶喪失です。親しい友達に、自殺を肯定してくれそうな人だけ詰め込んで、死を匂わせるストーリーをバコバコあげて、今振り返るとマジで痛い人間だった。でもそれくらい人生が苦痛だったから。やっと解放される喜びがあったんだろう。

しかし人間の体はそんなに弱くないらしい。僕のサイキョーの自殺計画では、睡眠薬を飲んで袋被って、首元ギュ。あとはそのまま寝てしまえば死んでいる予定だった。でも生きていた。なんでやねん!その自殺方法紹介してた奴らはどういうことか教えてくれよ!!次回は練炭使うぞコラ!!!!アホぼけなすび!!!!きゅうり野郎!!!!

後輩と電話で話してたら警察が家にきました。僕がベロベロしている間に、友達が警察に通報したみたいです。後輩に自殺未遂のことバレちゃったのがつらいです。

 

自殺はやめよう

自殺してみた結果!失敗はするし警察もくるし実家に帰らされます。

実は警察がきた後、二度と自殺しないよう保護されました。そして身元引受人に身元を引き渡すことになりました。その結果実家に帰ることになりました。寒い寒い実家で寂しくこれを書いています。

理想を言えば、自殺は個人の権利だと思っているので、いつでも死ねる環境が整っていることは必要だと考えています。しかし、やっぱり自殺で悲しむ人はいるし、生きなきゃいけないらしいです。自分の人生なのにね。誰も僕の人生の問題を解決できないのにね。でも生きなきゃいけない。それが社会の根底にあるルールです。それを守らなきゃいけない。だから死んではいけません。自殺はやめよう。

 

自殺未遂後の心境

なんだかスッキリした気分だ。自分の思想を警察にぶつけることができた。警察の人も、自殺以外は全部肯定してくれた。だからあとは自信を持って、自分の思想のままに生きようと思う。警察の人はいい人だった。でもごめん、いつかまた耐えかねて自殺を試みると思う。今のうちに謝っておきます。

また、心配してくれた友人の方々、心配させて本当に申し訳ないです。今度、電話とか直接会ってとかで謝罪させてください。お騒がせしました。

普段は謝罪なんて大嫌いな人間なんですが、友達のことは大好きだからちゃんと謝ります。謝罪するので許してください。

最後に、周りに自殺願望ある人がいる方へ。自殺をしたいって周りの人が言い出したら、それを止めれば止めるほど本人は連絡を断とうとするのでオススメしません。できれば「最後の晩餐に行こう」など言ってご飯食べながら号泣するとかの方が効果的です。周りに自殺しようとしてる人がいる方にはオススメしておきます。

 

以上、自殺レポでした!

みんな健やかに

アイドルになりたい。

私には彼女がいる。

私には今、付き合って4年経つ彼女がいる。浪人1年目のときに、人生1度は本気で、普通の恋愛をしたいと思って必死にアプローチをした。その結果、望み通りの女性と付き合うことができた。僕にとって思い入れのある彼女である。

 

普通の暮らしだ。

高校卒業まで荒れ果てた生活を送っていた私には普通がよく滲みた。ここだけ切り取るとキモチワルイ奴でしかないのだけど、事実荒れ果てていたのでこれ以外に形容のしようがない。

中学ではセクハラがかっこいいと思っていた。この一言だけで相当性格が悪かったことがわかる。高校では浮気がかっこいいと思っていた。別に悪さ自慢をしたいわけではなく、本当に事実だから書いている。

悪さ自慢になるかもしれないのにわざわざ書いているのは、これまでの悪さに対して反省をしているからである。中学で迷惑をかけた方々には大変申し訳ないと思っているから同窓会には一生行かないし、高校で関係を持った方々に対しては刃物で刺されても仕方ないと思って日々を過ごしている。

そんな中で私は普通の暮らしを求めていた。荒れ果てた生活から解き放たれたかった。怠惰な生活から逃れたかった。整った暮らしがしたかった。

彼女ができた。浪人1年目にできた。今でも付き合い続けている彼女だ。彼女は普通の人間だ。これで私も普通の暮らしができる。浪人中は苦労もあったけど、無事大学に合格してからは、これが普通の人生かと感動した。すべて彼女のおかげであった。

 

普通の人か。

私は徐々に普通の人間になっていった。特に周りに幸福をもたらすわけでも不幸をもたらすわけでもない、存在するだけの人間になった。唯一の個性は「彼女がいる」ことである。

彼女の存在はステータスになる。彼女がいるだけで周りは彼女の話をたくさん聞いてくれる。最近彼女とどうなの?同棲上手くいってる?喧嘩しないの?何年目?など、多くの質問をされるのである。ある意味人気者だ。

彼女の存在に支えられながら人並みに就活をがんばり、授業をがんばり、サークルをがんばった。就活のためにIT資格を取得したり、授業のために教科書を復習したり、サークルで劇に出演したり、それぞれ努力していたのである。しかし私は気づいたのだ、私には「彼女持ち」という個性しか残っていないと。

 

私自体には価値がない。

彼女持ちというステータスを持つゆえに、彼女との関係性を中心に周りから聞かれる。ゆえに友人と話すことは彼女との話が中心になる。彼女以外の話をする機会が減るのだ。彼女以外の話題といえば昔話くらいしかない。

その上、私は普通の暮らしをしている。過去の私を捨てて今の暮らしを手に入れたのだ。これは、過去の人間関係と趣味がリセットされたことを意味する。事実、趣味であった音ゲーはほとんどやっておらず、もうひとつの趣味だった数学でさえもほとんどできていない。大学、就活、サークル。この三本の土台に彼女がいる。彼女しかないのである。

つまり、私には彼女しかいない。彼女以外は標準的である。周りから見れば「なんか真面目に生きている彼女持ちの充実してそうな奴」というラベリングをされている。私にはそれが苦痛である。私自身を彼女と真面目さだけで見られているからである。その上、今は大学にも行けていない。私自身の価値は彼女で決まっている。私で決めることができないのである。仮に私が彼女と別れたら、私は無価値になる。別れて数ヶ月は「彼女と別れた悲しい奴」になるかもしれないが、それも一時的なものである。

また、今でこそ「彼女がいること」が価値になりえるが、いずれ歳を重ねるにつれてそれ自体が無価値になっていく。周りの人間が交際を開始して、結婚して、子どもを産んで、そういった人生の階段を進むにつれて、恋人、結婚という単語に価値が置かれなくなる。

 

アイドルになりたい。

私には彼女以外なにもない。彼女が消えた時、私に残るものがないのが怖い。

普通になりたい。その一心で、彼女と付き合ってからの4年間がんばってきた。しかし、普通も普通でつらい。普通の生活をしていると趣味の時間が無い。そもそも趣味まで捨ててしまった。私には本当に、彼女以外の魅力がないのである。

次は、エリートになりたい。人から尊敬されたい。そう思ってがんばってみたけど、それもやはり難しい。心が折れて薬を服用することになってしまった。

でも私は私である確証がほしい。私はここに存在したんだと思いたい。私の人生の証をこの世界に残しておきたい。古き良き普通の生活をしようか?子どもを授かろうか?そうすれば私は語り継がれることができる。もしくはアイドルになろうか?ファンができれば、Wikipediaに載れば私は存在したことになる。いや、1番ナイ可能性だろ。ばーか。

しかし、アイドル的な、カリスマ的なものがほしい。今までの人生、そのためにがむしゃらに頑張ってきた自負がある。今までずっと、人生の意味を考えて苦しんできた。その答えは、アイドルになることなのかもしれない。あくまでも私にとっての、現時点での答えです。

具体化の賜物

抽象的な言葉

私は数学をやりすぎた。伝えたいことは頭に浮かぶのだけれど、なかなかそれを言語化できずにいる。いわゆる抽象的なことしか言えない人間である。ゆえに具体化というフィルターを通して言語化する練習をしたい。練習した結果、具体化の賜物を得ることができるのだろうか。それこそがこのブログの目的である。

 

ここでいう抽象的なこととはなんなのだろうか。まずはそこから言語化していきたい。

 

一般化という言葉

一般化は数学でよく行われる行為である。特殊な条件で成立することをもう少し緩い条件でも言えるだろうか?という問いは中学、高校、そして大学の数学で頻繁に現れる。

例えば三角形の内角の和を考えてみよう。

上記の三角形を考えよう。内角の和は45°+45°+90°を計算して180°である。上記の三角形に対して内角の和を計算してみると180°になったわけである。

それでは、どんな三角形でも内角の和が180°になるのだろうか?上記の三角形に限らず、ほかのどんな三角形を考えても、その内角をすべて足すと180°であると言えるのだろうか?

(もう少し難しいことを言うと、ユークリッド幾何学の範囲の話ではそう言いきれる。しかしその話はこの記事の本意ではないのでここまで。)

特定の状況で成立することが他の状況でも成立するだろうか?言い換えると、特殊な条件で成立することをもう少し緩い条件でも言えるだろうか?この問い自体が一般化という営みであり、その具体例が上記の話題である。

 

抽象的なこと

ここまで、一般化とはなにかということを述べてきた。次に言いたいことは、一般化すると抽象的になるということである。特殊な条件をより広い条件で言うと、具体性が落ちるのである。

先程の三角形を考えてみよう。

「この三角形の内角をすべて足すと180°になることを示してください。」

という問いがあるとする。この問に対しては実際に足すだけで示すことができる。一方で

「どんな三角形も、その内角をすべて足すと180°になることを示してください。」

この問いになった瞬間に数学アレルギーを発症する人が多発するだろう。これはなぜか?それは具体性を欠くからである。

物の情報量は多ければ多いほど考えようがある。目の前のものを具体的に説明してもらえばしてもらうほど目の前のものを考えやすくなる。

例えば知らない人に会ったとしよう。相手の考えが手に取るようにわかれば、何を話せば相手が喜ぶのか、何を言えば相手は悲しむのか容易に考えることができるだろう。しかし、人は理解し合えないという言葉があるように、相手の考えが手に取るようにわかるということなんてない。相手が何を考えているかなんて、具体的には分からない。つまり知らない人の情報なんてなにもわからないのである。ゆえに知らない人は情報量がないため、相手に何を言えば喜ぶのかなど考えようがないのだ。

同じように、「この三角形」という文が「どんな三角形」になるだけで途端に情報量が減り、考えようがなくなるのである。

抽象的な言葉とは、このような情報量のない、具体性に欠ける言葉のことである。

 

抽象的思考の悪いところ

抽象的なことばかり考えていると、抽象的なことばかり言うことになる。抽象的なことばかり言っていると人とコミュニケーションを取りにくくなってしまう。なぜなら、言葉が出ないからである。

抽象的な言葉とは、情報量のない具体性に欠ける言葉のことである。情報量がないゆえに、なんと言っていいのかわからないのである。ゆえに言葉が出てこなくなり、コミュニケーションが円滑に進まなくなる。

ある映画を見た人が①「面白かった!」と言ったとしよう。その一言だけであれば情報量がなく抽象的である。そこから②「〜というシーンで〇〇が××で...」という説明が入ることで初めて具体的になる。そして、人によっては見に行こうと思えるのである。

私は①だけで物事を考える人間である。なんでもかんでもまとめたがるし、一般化したがるのである。映画の面白いシーンすべてを切り抜いて「面白かった」という感想でまとめて、「面白かった」のひとことだけでその映画を表現しようとするのである。

②を言える人間に私は憧れる。具体的に語れる人間になりたい。そう思って私はこのブログを始めた。

 

これから

この記事が具体的じゃないなと思える日がくるかな。それくらい具体的に書いたつもりです。

実は昔ブログをやってたんですが、それは音ゲー日記でしかありませんでした。もうすこし生産性のある日々を過ごしたいので、これからは思いつくままに、しかしながら自分なりに意味のあることをアウトプットしようと思います。

 

おわり。